「サトコがね、決めたんだって。あの物件」 僕が席に着くなり、妻は友人の名を出し、やっぱりね、と独りごちた。 会議中に届いた一通のメール。「悪いんだけど」という表題で始まる妻からのそれは、僕の夕飯を決めるものだった。仕事を終え、自宅の二駅手前で下車し、いつものバルに着いた時には、妻はサングリアを空けていた。 それにしても、と僕は口元を緩めた。彼女とこの手の話をするのが、僕はつくづく好きなようだ。建築家の作品詣でをデートコースにしていた二人は、新婚旅行にサグラダ・ファミリアを訪ね、今、住まいを話題に楽しむ二人になっていた。 これまでにもモデルハウスの見学や、土地の下見に誘われて行ったことはあった。けれど、デザインが気にくわないだの、条件が悪いだの、時には転勤の可能性をほのめかしたりして、先送りにしてきた。彼女の、どこか遠慮を感じる物件探しに、僕は素直に賛同できなかったのだ。
「ねえ、来月のお祝い、どうする?」 メインディッシュのサーブと同時に妻が尋ねてきた。サトコのか?と返すと、彼女は無言で鱈を口に運んだ。 しまった。結婚記念日か。しかも10周年ではなかったか。そういえば、世の中には「スウィートテン・ダイヤモンド」なる、なんともやっかいな慣習があるらしい。待てよ。物事に「決め時」というものがあるならば、良いタイミングかもしれない。スウィートテン・マイホーム。 僕らが大切にしたいのは、僕たちらしい暮らしができること。二人のお気に入りに囲まれた、世界にひとつだけの空間で、僕は、彼女の笑顔をゆったりと眺めていたい。 「週末の予定ってどうだっけ?」僕は残りのビールを飲み干すと、ずっと気になっていた場所に彼女を誘うことにした。